2019年06月19日

The history of the Hamamatsu Festival

ひさびさの投稿になりました。

連休明けてからというもの、いろいろと追われてあっという間に6月になりました。

単純作業を単純にこなすのはいいのですが、いざ考える必要のあることになると、色々な仮定があたまにうかび、なかなか進まないもので。むかしお客様から、「いとうさん、考えすぎ」と言われたこともあり。

そうなんでしょうね。

とりあえず、次のドタバタまで投稿するぐらいの時間は設けられたので久々の投稿を

浜松祭り会館へ行った話しを。・・・前回投稿から時間が経ってしまって、祭りの余韻も無くなってしまったわけですが、自身の備忘録含め浜松祭りの歴史の話です。

浜松祭りとは。

今回は浜松まつり会館や浜松中央図書館へ足をはこび、自分がしっくりくる答えを探してみました。

浜松まつりのルーツは、という話となると、パンフレット等に

「永禄年間(1558~1569年)当時の浜松を治めていた引馬城主の長男誕生祝いに、とある村人が大凧に名前を入れ城中高く揚げたことがはじまり~」
という一説がありますが、これが書いてある伝記自体の信ぴょう性も疑わしいようです。※この情報は図書館で調べた書籍より


長男の端午の祝いとして凧を揚げるという風習は、この地域だけでなく、広くされていたことだそうで、浜松まつりの大凧揚げは、それが発達したもののよう。

今は、団体競技のように揚げている凧ですが、もともとは、個人的なもので、お祝いとして母の実家や親戚、知人、町内の若衆らから贈られ揚げていたとのこと。

長男の無事成長と出世を祝う凧揚げは、江戸中期以降に普及したといわれているそうです。

時代とともに、凧は大きく、華美になり、このため時の藩主からたびたび禁令や倹約令が出されたとのこと。これは、質素倹約により、藩の財政をたてなおすためという理由もありますが、若者たちが協力、団結して大きな力を発揮することを恐れたためとも思われるそうです。

確かに、今の凧揚げや練りの団結力を見ていても、民が一同まとまる力は治める側の人間からすると恐いものと想像できます。

そして大凧を揚げるようになったのは、明治20年(1887年)頃で、明治30年(1897年)頃には凧の模様、各組の凧印が決まってきたそうです。

明治41年(1908年)頃は、組織も会場もなく、自然に今の科学館付近に集まって揚げていたようで、期間は4/10頃から5/5で、糸が絡めば合戦といった具合だったとか。

そして大正5年(1916年)に統監部が結成され、規約・申し合わせが順次作成されて、統制のとれた祭りになっていったそうです。

約100年程前から、ようやく組織的になっていったのですね。

昭和5年(1930年)には、昭和天皇が凧揚げをご覧になられたこともあったそうな。

昭和12年(1937年)からは戦争で中止されますが、

昭和22年(1947年)戦後初めての凧揚げ祭りが行われ40ケ町が参加。

そして、昭和25年(1950年)に、凧揚げ祭りを「浜松まつり」と改称され、昭和42年(1967年)から、今の会場、中田島で行われるようになり今に至ります。

いろいろと変遷しながらも、凧を揚げるという事はかわらずに続いてきたのですね。

(・・・なんか、ゆうじさんより詳しくなった気が)

つづく・・・。

2019年06月19日 | Posted in こどもの話 | タグ: Comments Closed 

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